明日 風になろう

地味で真面目で、時々おいしそうだなあって思われたいブログです。

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別れと旅立ちの季節に思い出す音楽たち

今日の首都圏は氷のように冷たい風が吹く寒い一日だった。
最強の防寒装備で仕事帰りの藤沢の街を歩いていたのだけど、マフラーを巻いた首元とか手袋をつけた手首とかのほんのちょっとの隙間から、氷柱を押し付けられるような痛いくらいの冷たい空気が忍び込んできて、カラダ全体がガチガチに縮こまっていた。

そんな帰り道の途中で信号を待っていた時、交差点の角に立つビルの1階のお店から流れてきた音楽に思わず懐かしさを感じて振り向いた。
その音楽は30年以上前に流行った「春なのに(柏原芳恵)」



ちょうど僕が高校を卒業する春に流れていた曲で、今がまさにその季節なんだと今更ながら思った。

♪記念にください ボタンをひとつ 青い空に捨てます♪

あの頃は後輩の女子に制服の第二ボタンを欲しいと言われるかどうかが、オトコにとってはかなり大事なことで、僕もけっこう緊張しながら卒業式を迎えたが、なぜだか後輩ではなく同学年の違うクラスの名も知らぬ女の子に「ボタンくれる?」と言われ、あげてしまった記憶がある。ちなみにその娘とは、その後一度も会っていない。

3月は別れと旅立ちの季節だ。
切なくて、でも新しい日々が始まるドキドキ感みたいな感覚は、いつも音楽とセットになって記憶に残っている。

僕も卒業の時期には思い出の曲があるが、印象に強いのはオフコースの「さよなら」だろうか。



1980年の2月頃、ひっきりなしに降りしきる雪の中、実家の自分の部屋で暗くなる前の夕方の時間を過ごしていた時、ラジオから聞こえてきたのが「さよなら」だった。
中学を卒業する直前の時期で、別にこの曲は卒業ソングではないけど、「さよなら♪」がリフレインされるパーツが、まもなく卒業する自分にとってとても印象強く、忘れられない一曲になっている。

そのちょうど一年前には「微笑がえし(キャンディーズ)」が一世を風靡した。



♪アン・ドゥ・トロワ 三歩目からは アン・ドゥ・トロワ それぞれの道、私たち歩いて行くんですね♪

いつも友達と一緒にいるのが当たり前だった子供の頃の自分に、初めて別れの切なさを意識させられた曲だったかもしれない。

音楽とそれにまつわる思い出は、いつまでも風化しませんね。
今年卒業する若者たちも、いい音楽とセットで素敵な記憶が残ればいいなとオジサンも思います。

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遊園地のサーカス

今日は仕事で千葉へ行った。
会社のある都内からはかなり遠方でもあり、車ではなく電車(京葉線)で出かけ、帰りも同じ電車で戻ってきた。

行きは車内で資料に目を通したりで忙しかったのだけど、帰路はボケッと夕暮れの外の景色を眺めながら帰ってきた。この京葉線というのは、途中「舞浜駅」を通る。舞浜は言うまでもなく「東京ディズニーランド」がある場所で、電車からもシンデレラ城とか施設の一部が見える。

50歳のオジサンにはもはや何の関係もない「ディズニー」だが、電車の窓からシンデレラ城のとんがり屋根を眺めながら、何の脈絡もなく、大昔の富山にあった小さな遊園地のことを思い出した。

その遊園地は「大川寺遊園」という。「だいせんじゆうえん」と読む。
富山でも少し奥に位置する大山町(現富山市)にあった、小さな山一つをまるまる使った昭和の遊園地だった。僕らが子供のころは地元で遊園地と言えばそこしかなくて、よく親にねだってつれていってもらった記憶がある。

アトラクションもそんなに多くはなかったが、でもジェットコースターや観覧車といった当時の遊園地のメインコンテンツはちゃんとあった。観覧車は小さかったが、山の上にある遊園地だったから見晴らしがよく、遠い富山湾まで見通せたのではなかったか。

ディズニーのように隅々までアトラクションが設置されていたわけではなく、敷地の多くは公園で、山の斜面には芝が植えられ、子供たちがゴロゴロと転がって遊んだり、レジャーシートを敷いて家族でお昼ご飯を食べたりと、昭和的な平和な風景がいつも見られた。

冬にはその斜面がそのままスキー場になった。
スキー場と言ってもただの山の斜面なので、ちゃんとしたリフトの設備とかはない。山の上まで長いロープを張り、それをモーターで巻き取るのがリフトだ。

子供たちはそのロープに両手でつかまって、山頂へ引っ張られて移動するのだ。ものすごく原始的なリフトだったが、当時の子供たちはそのロープにつかまりながら何度も斜面を上り下りして練習して、自然にスキーを覚えていったのだ。

夏休みの後半には、遊園地の敷地内にサーカスがテントを張った。
現在のサーカスというと「シルクドソレイユ」のような華々しいショーのイメージがあるが、昔のサーカスはもっと地味で、ショーというよりは大人の体操発表会みたいな感じだった気がする。

薄暗いテントの中でスチール椅子に座り、空中ブランコや長い棒を持ってバランスを取りながらの綱渡りといったお決まりの曲芸を見て、でも子供だった僕にとっては十分ドキドキしながら楽しめた時間だった。ピエロがトラとか熊とかの動物と絡むのも多分あったのだろうけどあまり覚えていない。

サーカスで僕の中ににありありと残っているのは、その何と表現していいか分からない「もの悲しさ」だ。
テントから流れてくる独特の音楽の影響もあったのかもしれないし、2週間くらいの興行が終わると跡形もなくいなくなってしまうという、旅人のような一団にそんな印象を持ったのかもしれない。

サーカスの舞台が始まるのはいつも夏の夕暮れだった。
というか、昼間の間は普通に遊園地で遊んでいたので、僕が見に行く時間が夕方だったのだ。
赤く染まる空の下を薄暗いテントに入っていくあの感覚は、まるで遠い西域の国にもぐりこんでいくような、不安で期待感のある不思議な心境だったと思う。

そしてサーカスが終わり外へ出ると、そこはもう夜の闇が支配している。
普段は夕方に家に帰り、それから夜が来るというのが僕の日常だったので、真っ暗な外へ踏み出すというのは一日の終わりを突然告げられたようで、何か大切なものを置いてきてしまったかのような喪失感に戸惑いを感じていた。
そんなこともあってかサーカスを見た夜はいつまでも眠れず、布団の中をごろごろと転がっていたと思う。

何で今頃こんなことを思い出したんだろうと不思議に思いながら電車に揺られる。
別に何も答えはない。電車の外はそろそろ日が暮れそうで、僕は東京駅までのもうしばらくの時間を、揺れに任せて目を閉じた。

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僕らの秘密基地

仕事で多摩川沿いにある顧客へ訪問し、「クルマはそこに停めておいて」と言われたのが堤防沿いの空き地だった。
アポイントの後、空き地に停めた車に戻りあたりを見渡すと、ススキや雑草が一面に広がって冷たい風に揺れている。どの草もすでに枯れて茶色くなってしまっていて、寒々とした景色だ。

僕は背伸びをして首をコキコキと鳴らし、さて帰ろうかとドアを開けようとしたのだが、視線の先にちょっとした違和感を感じて手を止めた。そこはやはり雑草が生い茂る空き地の一角なのだが、草の生え方というか風へのなびき方というか、周りの草と違って見えて「何だろう」と思ったのだ。

近くへ行ってみるとそこだけ草の生え方がランダムでごちゃっとしている。よく見ると草のてっぺんが結ばれていて、イスラムのモスクみたいな丸い屋根になっているのだ。

「これ、秘密基地じゃん」

と僕は即理解した。

ススキやカヤの細長い葉は、俗に「包丁葉っぱ」などと呼ばれ実際に手を切ったりもするのだが、子供の頃にあの長さを利用して先端を束ねて結んで屋根のようにして、その下に子供が何人か座って入れる空間を作り、それを「秘密基地」と称していたのだ。
いまでもこんなことをして遊ぶ子供がいるんだと驚きながら思ったが、そういえば何年か前に、映画「20世紀少年」で昭和の秘密基地の映像が放映されていたからその影響もあるのかもしれないと思う。

多摩川沿いの空き地にあった秘密基地はとても小さくて、子供でも2人ほど入ったら満席じゃないかと思うようなサイズだったが、久しぶりにホンモノの基地を見た感じがして微笑ましく思った。

僕らの頃は秘密基地はもっと大掛かりで、枯れ葉を束ねるだけでは満足できず、笹が数メートルに大きく成長したブッシュへ行って、背の高い笹を広く使って大きな基地を作った。笹の下葉は持ってきたカマで落として、縛った屋根の上に乗せて雨よけとか日除けにした。
スギ葉や落ち葉などの柔らかい葉っぱを集めてきて地面に敷き詰めて座れるようにし、ちゃんと玄関も作って、靴を脱いで基地に入るキマリだった。「20世紀少年」に出てきた秘密基地と同じくらいの規模で、大体10人くらいの子供を収容できたはずだ。

秘密基地の中で、僕らは楽しいことも悪いこともいろいろやった。
まじめに一緒に宿題をしたこともあるし、飼っているカブトムシとかクワガタを持ち込んで相撲を取らせたこともある。(ポケモンと一緒だね)
父親が飲んでいるサントリーオールドを持ち込んで、キャップで舐めてひっくり返ったこともあるし、父親の「○○宝石」とかのエッチな本を盗み出して回し読みもした。どちらかと言うと悪いことのほうが多かったかも。

友達に会いたければ秘密基地に行けば誰かしらがいたし、一人でマンガを読みながら秘密基地で友達を待っていたこともある。
女の子はまったく関心を示してくれなくて男ばかりが集まっていたけれど、そこはとても楽しくて親にも内緒の場所で(だって秘密基地だし)自分たちで自分たちのことを決めることができる場所だった。

秘密基地に集まっていたのは僕が住んでいた集落の子供たちで、田舎で子供が少なかったこともあり年齢差もけっこうあった。僕が小学校の上級生の頃、下は一年生もいたし上には中3のお兄さんもいた。そしてだいたい最年長の男の子が秘密基地のリーダーの役割を担っていた。リーダーは当時の人気番組の「太陽にほえろ」の影響だろうが「ボス」と呼ばれ、基地に所属する子供たちは自然と「ボス」の指示に従っていた。

ある時、近隣の集落の子供たちから「お前たちの基地は生意気だ」みたいなイチャモンをつけられて、土曜日の午後に基地をぶち壊しに行くという開戦予告が告げられた。当時土曜日は「半ドン」といって、午前中だけ授業があり午後はお休みだったのだが、何が気に入らないのか知らないが、彼らは僕らの基地にやたら敵対心を燃やしているらしいのだ。

僕らは当時基地のリーダーだった「ヨシアキ君」に「どうしよう」と相談したのだが、「ヨシアキ君」の答えははじめから決まっていたらしく、「やり返すぞ」という勇ましいものだった。僕らは「ヨシアキ君」の指示に従い、泥ダンゴをひとり20個作り基地の外周の草むらに隠した。
また、基地の入口のすぐ目の前に落とし穴を掘り、川からバケツで汲んできた水を溜めてその上に葉っぱを敷いて見えなくして、敵の襲来に供えたのだ。

そして土曜日の午後、予告通りに敵は僕らの秘密基地にやってきた。すごい大軍で来たらどうしようとビクビクだったが、数人の部隊でしか無く、それでも「ヨシアキ君」は「投げろー!」と大声で指示し、僕らは隠してあった泥ダンゴをいっせいに投じた。
泥ダンゴは何の準備もなくやってきた敵部隊の上に雨のように降り注ぎ、近隣集落の子供たちはドロドロになって泣きながら逃げ帰っていった。
勝った僕らは万々歳で、「ヨシアキ君」は僕らのヒーローだった。

だが、世の中そんなにいいことばかりは続かない。
泥ダンゴを浴びた近隣集落の子供の中に腕に傷を負った子がいて、どうやら泥ダンゴの中に石が入っていたらしいという話になり、大人まで巻き込む大騒ぎになってしまった。「ヨシアキ君」はじめ僕ら一同は、親に連れられて怪我をした子供の家に謝りに出向き、どうにか収拾したのだが何とも後味のわるい結果になってしまった。

更に、後日僕にも悲劇があった。
寒い晩秋の放課後に、僕は誰かいないかなと思い何日かぶりで秘密基地へ行った。
あの騒ぎ以降、初めて行ったのだが基地の中は遠目には誰もいなさそうで、仕方ないから中で誰か来ないか待っていようと思い、入り口へ向かった。

屈んで入り口をくぐろうとしたその時、僕の足元はフイに消えて、僕はズボズボと深みへ落ちていったのだ。
そう、あの時作った落とし穴が、埋められることもなくそのまま残っていて、すっかりそれを忘れていた僕がそこにはまってしまったのだ(T_T)
僕は何が起きたのかすぐに分からず、文字通りのパニックになって大声で泣き叫んでいたら、近所の大人がすぐにやってきて救いだしてくれたのだが、その後はまた集落あげての大騒ぎになり「ヨシアキ君」は相当怒られたらしい。今にして思えば、いくら「ボス」だからといって、子供の「ヨシアキ君」にそこまで責任を集中させなくてもいいじゃんと思うが、昭和の片田舎の正義というのはそういうものだったのだろう。

あんな時代にあんなせまい世界の中で、けっこう大きな経験をしたなあと、今にしてつくづく思います。
もちろん大人に叱られて仕方のないことではあったけれど、みんなで協力して何かを成し遂げるという初めての経験でもあったと思うのです。
今の子供たちはあの秘密基地で、どんなことを経験して、何を思っているのかなって、楽しみ半分、心配半分で思います。

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